Kamui / YC2.5

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YC2.5のアルバムを体験として以下に残す。聴きながら浮かんだ言葉を書き写した。

この傑作は聴く側との共同幻想となる巨大なフィクションの世界をつくりあげる。そして母体となる幻想に、数々の聴衆者がつながりネットワークとなる。(ジャックインする)

その関係性を構築した後は、幻想を通して現実の少し先を考えさせる。それは日本であり、日本でない。抽象度は高い。しかし日本ほど足元がない社会はない。つまり思想的背景、宗教の問題が出てこない。だからこそフィクションがよく混じり合う。

少しの明るさは見出せる。しかし俺たちの生きる現実はあまりに厳しい。当然のように助けはなく、常にヒリヒリと物理的な死と精神的な死が隣り合っている。そんな中「KANDEN」というイベントに行き、「Tesla X」というなにかをキメると突き抜ける感覚を味わえる。あまりに日常ではないか。飾りながら日常を肯定する姿はサイバーパンクなのか。

内的世界に曲の世界は移っていく。弱々しい自己を破壊する。破壊した自己を一体どうやって立て直すのか。一言でいってしまうと葛藤である。葛藤しながら自己をつくっていく。病んだ社会に「いじめ」は蔓延っている。「いじめ」の記憶、それは被害者でも加害者でも、傍観者でも思い出すだけで溢れるように出てくる。そこでどう思った?されて、してしまって、みてしまって。仕方ないと受け入れてはいけない。世界は変えられる。変えられる材料をあなたは持っている。大事な人との記憶。

加えて大切な人との日々。それによって前に進める。その体験は力を与える。世界だって変える力を得る。4歳で見飽きた世界をひっくり返す。疾風のごとく駆け抜ける。自分を信じることは革命の第一歩だ。自分は才能に溢れ、クソな世界すら変えてしまうだろう。「疾風」は励ましてくれる曲でも、引っ張ってくれる曲でもない。共に風になる曲である。

しかし魂を取り戻す旅は終わりを迎える。巨大なフィクションは私たちに侵入しきっている。だが、考える余地は与えてくれる。押し付けられたわけではない。アルバムを聴いている間にすっかり浸透してしまったのだ。

最後の曲になり、Kamuiのつくった共同幻想は鮮やかにわたしたちの脳内から去ろうとする。もう少し浸らせてくれ、そして答えを教えてくれと思ってしまう。このアルバムで何かを得たい。だから何度も聴いてみる。しかし気づく。

共同幻想に浸ったこの時間は、自分の答えを探すための時間だったのか?そもそも何の答えを俺は求めているのか?違う。そうだ。この時間は魂を取り戻す擬似体験を与えてくれたはずだ。自身の魂は唯一無二だ。しかし一方でネットワークとなり他人(家族、恋人、友人)と繋がっている。それはまさに共同幻想であり、巨大なフィクションに他ならない。

目の前に映る数々の出来事。それに一喜一憂するだけで人生を終えてはならない。「現実」と「フィクション」の境目とはなんだ。体験を根底にした信じるべきフィクションはある。おれたちは信じるべきフィクションを選ぶことができる。そして多くの人が信じれば共同幻想にすらなるだろう。選んだその時から未来は変わってしまうのだ。

 

 

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https://twitter.com/tsurigane_mushi/status/1511298971234287617?s=21&t=mE3TDg2a_zdrNg4WmSZdjw

 

記号の消費に無自覚、または消費している自分から目を逸らす、消費することにプライドを持つ消費者(オタク)。「身体の記号化→消費」の流れは、その身体を持つ側(この場合女性)からすると、どこか気持ちが悪い。しかし、消費することにプライドを持つ消費者は、そんなことに構わず消費させろという。

だから、完全に勝敗がついているかというとそうではない。もちろん消費することにプライドを持つ消費者とは、非常に厄介なものではあるだろう。加えて、身体を持つ側として嫌悪感を表明して当然である。

しかし、自らをメタ視点で見たのち、構造的なイメージをもつことが苦手な両者は、気に入らないと叩き合うに留まってしまう一面も存在する。Twitterはそんな叩き合う段階で思考を押しとどめ、議論を高次の構造的なイメージ、本質的なオタク論・フェミニズム論にいかないようにできている。

【映画】サマー・オブ・ソウル

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素晴らしい映画を見た。タイトルの通りそれは『サマー・オブ・ソウル』である。

 

様々な悲劇(マルコムxキング牧師ケネディの死など)を黒人たちが経験した1969年、「ハーレム・カルチュラル・フェスティバル」という入場無料の音楽フェスが開催される。参加者(多くの黒人)は、その音楽フェスによって、同志の死という悲劇、苦しい生活、神への祈り、政治的イシューの共有までをも行い、自らを誇りある"黒人"とアイデンティファイ(自らのアイデンティティとする)していくのである。

 

まず僕が思ったこと。それはここで描かれる"音楽"がなんて濃密なことか!
先にも述べた通り、フェスでの音楽には、神への祈りや(黒人)貧困層の現状、政治的イシュー全てが詰まっている。それはアメリカ社会で生きづらい黒人たちが広く生活の中で感じたこと、その事が凝縮されて、洗練されて、音と歌詞になる。そしてそんな音楽に勇気づけられる、慰められる、行動を変えてくれる。音楽が単なる娯楽ではなく、自分たちの生活につながるものとして、身体の延長線上のものとして捉えられているのである。それを濃密な音楽体験と呼ばずして何だろう。

 

そして考える。"日本"(あえて大きい主語を使うと)の音楽は、身体の延長線上のもの、そのなかに悲劇・祈り・政治的イシューがこめられて、表出されているだろうか。ただの娯楽の一つ、アイテムに過ぎないと思ってはいないか?
また、先ほど"日本"という言葉を使ったが、僕たちはそもそも"日本人"(または黄色人種)というアイデンティティを持っているだろうか。島国が故か、「アジア顔で日本語を話す」ことが、あまりにマジョリティとされているばかりに、人種を自らのアイデンティティとするなど考えもしないのではないか?

 

もちろん"日本人"というアイデンティティを過剰に持つことは危険にも感じる。ナショナリスティック(国粋主義的、ネトウヨ的)な感情を持つことにもつながるかもしれない(自国のことが好きなのは素晴らしいことだと思うけど)。

僕はそのことを言いたいのではなく、黒人という「アメリカ社会でのマイノリティな存在」が、自らを誇りある"黒人"とアイデンティファイしたことが重要なのである。今の均一化された社会において、マイノリティはマジョリティに染まって生きていることが多い(性的マイノリティ、日本以外の国籍、障害の有無etc...)。そのマイノリティの人たちが、自らのマイノリティ性を掲げて、自分をアイデンティファイすることはどれだけの勇気が必要だろう。もしそれを自分だけじゃなく、同じ属性の大勢で集まって、みんなでできれば...。さらに音楽を使って通じ合いながら、楽しみながら、アイデンティファイすることができればどれだけ励まされることだろう!

そんな"かけがえのなさ"が、この映画の鍵であり、胸を打つ部分であると僕は思う。

 

娯楽だけではない、濃密な音楽体験を見せてくれた上に、自らのアイデンティティとは何か?と考えさせてくれた映画だった。本当に見て良かった。

【エッセイ】「考える」とは何か? 〜デカルト『方法序説』を読んでの考察〜

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タイトルについて述べるにあたって、まずはデカルトの「心身二元論」から考えたい。

デカルトという哲学者は、心身二元論を唱えた。心身二元論とは、ざっくり言うと、人間は心と体(精神と肉体)に分けられるという意味である。 
デカルト心身二元論は、今「考えてる私」とは何か?という問いから始まった。(デカルト「我考えるゆえに我あり」→じゃあ「我」って何?)

解剖学などの医学に関心があったデカルトは、各臓器、心臓の存在や構造はかなり理解していた。だから勝手に動いている各臓器や心臓は身体の一部と判断し、それとは違う「考えるこの私」は一体なんなのだろうと悩んだ。その結果、この「動く体」と異なる「考える私」は、精神であって身体とは別のものだと結論づけたのである。

 

では、初めの問いに立ち戻り、「考える」とは何か?
それは全てに目的(なぜ)を問うことである。なぜ勉強しなくてはならないの?なぜ仕事をするの?なぜ両親はそう言うのだろう?なぜ友達はそう言うのだろう?なぜコロナウィルスは蔓延しているのだろう?これらの問題に頭を悩ますこと。それが「考える」ということである。

最後に、「考える」ことは果たして必要だろうか?
目的を問う行為、なぜと問うことは、自分を客体化させる行為である。つまり自分(A)と相手(B)との関係を上から、他者(C)の視点で考えることになる。これは自らが、自分と相手との関係だけに縛られず(主体としての視点)、そこから解き放たれて「自由」になって考えるということである。様々な状況、相手から「自由」になる。それが「考える」ことの目的である。

tofubeatsのアルバム「RUN」と「POSITVE」の比較 〜自らの職業体験を通じて〜

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最近、tofubeatsのアルバム「RUN」がとても心地良い。

リリース自体は2018年で去年だが、硬質なサウンドや、感傷的だがどこか落ち着いているようなアルバムの雰囲気が今の自分にとてもマッチしている。

 

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話は変わるが、これまで自分がtofubeatsで一番好きなアルバムは「POSITIVE」だった。単純な理由だが、ポップなメロディで色々なゲストのボーカルを楽しめ、ほとんどの曲がボーカル付きで聴きやすく、歌詞がユニークだ。

その中でも特に好きなのは、[too many girls]で、 "too many girlsって何の話?" と "tofuはイーモバ3台持ってるらしい" で韻を踏んでいるリリックは最高だ。

これまでのKREVAのモテ男目線の話から、急に真逆のオタク目線になり、切ないラップが始まる。ここで一気に感情移入できる。

 

 

だが、最近、tofubeatsだとやはり「RUN」が聴きやすく感情移入できるのである。

これはどうしてだろうと考えていたら、本人の「RUN」についてのインタビューを見つけた。

その中で、tofubeats本人が、アルバムを聞き直してみると「RUN」は自力で何とかしようと気持ちが出ていて、「POSITVE」は他力で何とかして欲しいと願っていると語っていた。

 

この説明で、自分の中の「RUN」「POSITIVE」論争の謎が解けた。

 

自分は、大学を卒業し、就職して一年がたつ。会社にはもう次の新卒が入ってきており、2年目の先輩である。

広告営業という職業は少しだけ慣れ、なかなか仕事は追いつかないが奮闘し出した頃だ。

ここでわずかに変わってきたことは、行動への意識である。

インドに一人旅に行ったり、アメリカに留学に行くことばかりが行動ではないと思うが、

考え、行動し、結果をしっかりと見つめ、分析する。といった行動と反省の大切さは社会人になって、非常に学んだ事である。

特に営業は、自分で動かなければ何も進まない職種なので強く意識付けられた。分かっていてもできない事ばかりではある。面倒臭いし。

 

そういった考えを持ち始めると、「RUN」は全てtofubeatsがボーカルをとり、自力で、強い意志を持ちながら行動し、時に感傷的になったりもしつつ、それらの障壁を乗り越えていくようなアルバムの流れが見えてきたような気がしたのである。

一方、「POSITIVE」は学生時代に努力はするのだが、切羽詰まっておらず、どこか他力本願な感覚がマッチしていたのかなと考える事もできる。

 

そのような相反するコンセプトを持つアルバムはtofubeats自身が歳をとり考え方や意識が変わりながら、生まれたものなのだろう。そんなようなことを同じインタビューでも言っていたと思う。

それも踏まえ考えると、自分も歳を重ね、徐々に感覚も変わり、社会人になっているのかもしれないと再確認させられた。

ゆらゆら帝国/ミーのカー

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最初に聴いたときは何じゃこりゃと思った。これを初めて聴いたのは、高校生1年の時で、1人部屋の隅っこでヘッドホンをつけて爆音で聴くには最適な音楽だった。聴けば聴くほどハマってしまった。

ゆらゆら帝国は、ファーストアルバムからセカンド、サードまではロック調でそこからサイケデリックな方面にどんどん変わっていく。やはり自分は三枚目までのロック調が大好きだ。

Voの坂本さんの歌詞の世界観はいつも無力感が漂っている。また、死が常にテーマとしてあり、今回のアルバムではそれをロックという箱に包んで、くどすぎず、分かりやすく聞かせてくれる。

押し寄せるような曲の勢いと力の抜けた耳に残る歌詞で非常に癖になる作品である。

「悪魔がぼくを」では、歌詞の中で悪魔が現れる。この水木しげる的世界観に浸ると、今見ている世界が歪んでくる。目に見えない敵まで現れる。

聴くことによって、今直面している現実がぼやかされて、全て敵に見えてくる感覚が自分にとっての本当のロックである。

 

 

 

 

MUD/Make U Dirty

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KANDYTOWNのクルー、MUDのファーストアルバム。

90'sのゴールデンエイジをリスペクトしたようなサウンドとマッチョイズムばりばりのリリックで、聴いた後は自分が強くなった気になる。

このアルバムの素晴らしいところは、シンプルかつ耳に残るトラックの数々である。ChevyとMake u dirtyはこの中でも特に好きな曲だが、シンプルかつ多少の隙間を残したクールなサウンドは何度聞いても疲れないし、飽きない。

ぶっちゃけ、自分はヒップホップで一回聴いて何言ってるか分かる曲はほぼ無い。何度も聴いていく中でジワジワと分かっていく。アーティストの曲やアルバムに込めた意思やイメージが徐々に自分に浸透していくという感じだ。そして、染み込んできた概念やイメージは、一時的にでも自分を変えてくれる。

自分の感覚や考え方に自信が持てなくなった時、これを聞けば下らない世間に中指をたて、自分の中の軸をもう一度しっかりと立て直させてくれるのである。