【映画】サマー・オブ・ソウル

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素晴らしい映画を見た。タイトルの通りそれは『サマー・オブ・ソウル』である。

 

様々な悲劇(マルコムxキング牧師ケネディの死など)を黒人たちが経験した1969年、「ハーレム・カルチュラル・フェスティバル」という入場無料の音楽フェスが開催される。参加者(多くの黒人)は、その音楽フェスによって、同志の死という悲劇、苦しい生活、神への祈り、政治的イシューの共有までをも行い、自らを誇りある"黒人"とアイデンティファイ(自らのアイデンティティとする)していくのである。

 

まず僕が思ったこと。それはここで描かれる"音楽"がなんて濃密なことか!
先にも述べた通り、フェスでの音楽には、神への祈りや(黒人)貧困層の現状、政治的イシュー全てが詰まっている。それはアメリカ社会で生きづらい黒人たちが広く生活の中で感じたこと、その事が凝縮されて、洗練されて、音と歌詞になる。そしてそんな音楽に勇気づけられる、慰められる、行動を変えてくれる。音楽が単なる娯楽ではなく、自分たちの生活につながるものとして、身体の延長線上のものとして捉えられているのである。それを濃密な音楽体験と呼ばずして何だろう。

 

そして考える。"日本"(あえて大きい主語を使うと)の音楽は、身体の延長線上のもの、そのなかに悲劇・祈り・政治的イシューがこめられて、表出されているだろうか。ただの娯楽の一つ、アイテムに過ぎないと思ってはいないか?
また、先ほど"日本"という言葉を使ったが、僕たちはそもそも"日本人"(または黄色人種)というアイデンティティを持っているだろうか。島国が故か、「アジア顔で日本語を話す」ことが、あまりにマジョリティとされているばかりに、人種を自らのアイデンティティとするなど考えもしないのではないか?

 

もちろん"日本人"というアイデンティティを過剰に持つことは危険にも感じる。ナショナリスティック(国粋主義的、ネトウヨ的)な感情を持つことにもつながるかもしれない(自国のことが好きなのは素晴らしいことだと思うけど)。

僕はそのことを言いたいのではなく、黒人という「アメリカ社会でのマイノリティな存在」が、自らを誇りある"黒人"とアイデンティファイしたことが重要なのである。今の均一化された社会において、マイノリティはマジョリティに染まって生きていることが多い(性的マイノリティ、日本以外の国籍、障害の有無etc...)。そのマイノリティの人たちが、自らのマイノリティ性を掲げて、自分をアイデンティファイすることはどれだけの勇気が必要だろう。もしそれを自分だけじゃなく、同じ属性の大勢で集まって、みんなでできれば...。さらに音楽を使って通じ合いながら、楽しみながら、アイデンティファイすることができればどれだけ励まされることだろう!

そんな"かけがえのなさ"が、この映画の鍵であり、胸を打つ部分であると僕は思う。

 

娯楽だけではない、濃密な音楽体験を見せてくれた上に、自らのアイデンティティとは何か?と考えさせてくれた映画だった。本当に見て良かった。