【エッセイ】「考える」とは何か? 〜デカルト『方法序説』を読んでの考察〜

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タイトルについて述べるにあたって、まずはデカルトの「心身二元論」から考えたい。

デカルトという哲学者は、心身二元論を唱えた。心身二元論とは、ざっくり言うと、人間は心と体(精神と肉体)に分けられるという意味である。 
デカルト心身二元論は、今「考えてる私」とは何か?という問いから始まった。(デカルト「我考えるゆえに我あり」→じゃあ「我」って何?)

解剖学などの医学に関心があったデカルトは、各臓器、心臓の存在や構造はかなり理解していた。だから勝手に動いている各臓器や心臓は身体の一部と判断し、それとは違う「考えるこの私」は一体なんなのだろうと悩んだ。その結果、この「動く体」と異なる「考える私」は、精神であって身体とは別のものだと結論づけたのである。

 

では、初めの問いに立ち戻り、「考える」とは何か?
それは全てに目的(なぜ)を問うことである。なぜ勉強しなくてはならないの?なぜ仕事をするの?なぜ両親はそう言うのだろう?なぜ友達はそう言うのだろう?なぜコロナウィルスは蔓延しているのだろう?これらの問題に頭を悩ますこと。それが「考える」ということである。

最後に、「考える」ことは果たして必要だろうか?
目的を問う行為、なぜと問うことは、自分を客体化させる行為である。つまり自分(A)と相手(B)との関係を上から、他者(C)の視点で考えることになる。これは自らが、自分と相手との関係だけに縛られず(主体としての視点)、そこから解き放たれて「自由」になって考えるということである。様々な状況、相手から「自由」になる。それが「考える」ことの目的である。